LOGIN そして
静かにそして段々と背後に迫りながら。
すぐに荒い息は後髪に感じるほど近寄って来た。
一息ふた息。荒い息がまとわりついてくる。
それが短い唸り声に変わった時、
その
こっちも
そんなこと向こうはお構いなしに炯々と光る眼でこっちの玉の緒を欲望し銀牙の列をむき出しにして来た。
殺される!
その時だった。
すぐ横の茂みの中から大きな黒い塊が飛び出して来て殺気の主に飛びかかったのだ。
向こうの
赤さんの明かりがそちらを照らす。
視界に広がる下草が荒波のごとくのたうつ度に地響きが起き、青墓に重く被さる樹木を揺るがした。
神々の闘争。
永遠に続くかと思われたけれどそれが急に止んだ。
その成り行きに固唾を飲んだかのように青墓が静寂に包まれた。
少しして赤さんが明かりを
空気を震わすその雄叫びに赤さんがもう一度明かりを戻すと、そこにひだる様でない獣が怒気を露わに立っていた。
そしてその手に何かぶら下げていて、よく見るとそれは、
獣は
それは人が見たらゾッとさせられる表情だったろうが
それから獣は手にした
その放物線を赤さんの明かりが追う。
髪の毛を降り回しながら飛んできた首が重たい音をたてて
もう一人の
「鬼子でございます」 鬼子。満月ごとに獣となって人を食い殺す異形のもの。月鬼とも言われる吸血鬼の眷属。辻沢で吸血鬼の影に隠れて無名だが、夕霧太夫の流れを汲む古来からの存在だという。 それが何故妾を助けてくれたのか?あれは柊だったからだ。だから妾がひだる様に襲われたのを見て飛びかかったてくれたんだ。理由は分からなかったけれど、そう思えてならなかった。 それで、赤さんが再び青墓の奥へと導こうとするのに対して、自分の意思で獣が去った樹木の間に歩みを進めたのだった。 青墓に何かが起きていた。空気が震えて重かった。夜明けが近いはずなのに青墓の杜は暗いままで、時間の歯車が錆びついたかのように時の進みが感じられなかった。 その頃には妾は赤さんの明かりを必要としなくなっていた。光がなくてもなんでも見える。それは目が慣れたというより青墓の闇に魂が囚われたという感覚が近い気がした。 行手の獣道に赤襦袢が蟠っていた。雌のひだる様だった。何かを探しているのか、首を回して辺りを睨め付けている。妾は見つからないように、体を低くして獣道から逸れて茂みの中に隠れた。「サワ、私たち友達だよね」 おずおすとした声が聞こえて来た。それは屍人の問いかけに違いなかった。それに応えたら襲われる。「そうだよ、ナオコ。私たちは友達だよ」 優しげな声が聞こえて来た。心がとろけてしまいそうな慈愛溢れる声だった。妾は思わず身を乗り出して慈悲深い声の主を確かめた。けれど目に飛び込んで来たのは屍人を頭から捕食するひだる様の姿だった。大きな口の中で骨が砕ける音がした。悲鳴にならない悲鳴が辺りの空気を震わせた。首がない屍人が地面に崩れ落ち、赤い炎を上げながら青墓の地面に染み込んで後から山椒の匂いが漂って来た。
そして妾は再び暗闇の中を歩き出す。気配が後をついてくる。静かにそして段々と背後に迫りながら。 すぐに荒い息は後髪に感じるほど近寄って来た。一息ふた息。荒い息がまとわりついてくる。それが短い唸り声に変わった時、妾は振り向いて気配の主を見た。その顔は柊ではなかった。 妾だった。 その妾はこの妾に殺意をむき出しにしていた。こっちも妾なのに何するつもり?そんなこと向こうはお構いなしに炯々と光る眼でこっちの玉の緒を欲望し銀牙の列をむき出しにして来た。 殺される! その時だった。すぐ横の茂みの中から大きな黒い塊が飛び出して来て殺気の主に飛びかかったのだ。向こうの妾と黒い塊がまろびながら深い下草の中に消える。赤さんの明かりがそちらを照らす。視界に広がる下草が荒波のごとくのたうつ度に地響きが起き、青墓に重く被さる樹木を揺るがした。神々の闘争。永遠に続くかと思われたけれどそれが急に止んだ。その成り行きに固唾を飲んだかのように青墓が静寂に包まれた。少しして赤さんが明かりを妾の足元に戻した時、この世のものでない咆哮がして、青墓の闇に轟き渡った。空気を震わすその雄叫びに赤さんがもう一度明かりを戻すと、そこにひだる様でない獣が怒気を露わに立っていた。そしてその手に何かぶら下げていて、よく見るとそれは、妾の首だった。獣は妾と目が合うと口の端を歪め銀色の犬歯を見せた。それは人が見たらゾッとさせられる表情だったろうが妾には笑いかけたように見えた。それから獣は手にした妾の首をこっちに放り投げてよこした。その放物線を赤さんの明かりが追う。髪の毛を降り回しながら飛んできた首が重たい音をたてて妾の足元に落ちた。もう一人の妾の
深黒に塗り固められた青墓の真奥は赤さんが灯す狭い範囲だけが世界だった。赤さんはひだる様のことを口にしたあたりから全く声を出さなくなっていて、妾が朽葉を踏む湿気た音だけがひたすら耳に届いていた。枯れ葉が積もる足元の小道はすごい速さで後ろに動いていくけれど、それが一度来た場所なのか、何度も通った道なのかさっぱりわからない。妾は急に不安でたまらなくなって暗闇に向かって尋ねた。「柊はどこ?」 こういう状況だとしばしの間が永遠に感じるものなのに赤さんはそれを知らないのか、なかなか返事をしてくれなかった。あたしは痺れを切らしてもう一度聞いた。「柊はどこなの!」 自分でもびっくりするほど高い声だった。すると、息を止めていたかのような大きな吸気の音がした後、「太夫、ご辛抱を。もうじきでございますので」 押し殺した声がしたのだった。 やっぱり怯えている。それが妾にも伝わって息苦しくなる。赤さんの怯えの先はひだる様だ。 寝物語にひだる様のことを聞かせてくれた馴染客曰く、「全身を獣毛が覆い灌木の茂みほどの体躯だがすこぶる敏捷。5本の手爪が牛刀のように鋭く、苦もなく丸太を断裁する。眉間の下、炯々と闇を射抜く瞳は金色、大きく開いた顎には銀牙が隙間なく並んでいる。雌雄あって青い半纏が雄、赤い襦袢が雌。牛頭でこそないがまさに地獄の獄卒。あの鎌爪にかかればひとたまりもない」 それからしばらく無言の赤さんと闇の中を進んだ。地面が明かりの中に現れすぐ漆黒に溶ける様子を目で追いながら歩く。聞こえるのは妾の足音と青墓の木々が立てる悲鳴のような風鳴り、そして小枝を踏みながら付いてくる何者かの荒い息遣いだけだった。 精一杯声を抑えて赤さんの気配に言った。「何かついてくる」 それにはすぐに反応があっだけれどさっきよりずっと抑えた声で、「わかっております」 釣られて小声になって、「ひだる様?」「そうは見えません」 屍人なら声をかけてくる。ひだる様でも屍人でもないならそれは柊しかいない。そう思って妾は足を止めて振り返ろうとした。その刹那、闇から手が伸びてきて妾の腕を掴み強制的に無言の行進に引き戻された。「太夫。見てはいけません」
歩き出して少しして屍人に出会った。その屍人は妾のことを見るなり近づいて来て、「鈴風。妾たち友達だよね」 と妾の本名で話しかけて来た。よく見るとそれは、妾が千福楼に来たばかりのころに仲良くしていた千景だった。千景は早くに金回りがいい男に見受けされだけれど、姑のいびりにあい手首を切って亡くなったと聞いていた。「お可哀想に、吸血鬼に嫁いでしまったようです」 赤さんが屍人の千景の首に明かりを灯した。暗闇の中から薄ぼんやりと浮き出た千景の細首は真っ白で黒血管が浮き上がり、その近くに赤黒い点々が見て取れた。それは信夫との邂逅の後妾の首に付いていたものと同じだった。吸血鬼に牙を突き立てられた跡なのだ。意外さと懐かしさとで思わず返事をしようとしたら、「受け答えをすれば襲われます」 赤さんの声がそれを制した。屍人の問いに応えれば襲われる。それは辻沢の人間なら当たり前に知っていることなのに、知り合いだからと屍人に心を預けてしまうところだった。妾は咄嗟に口を押さえて出かかった声を止めた。どんなに千景の問いかけに応えたかったか。そしてまだ幼いままの、妾がどこかへ置き去りにした純真さそのままの千景を抱きしめたかったか。 千景はいつまでも返事をしない妾を虚な眼で見つめながら、「鈴風は、返事をしてくれないんだ」 と一言呟くと、来た道をゆらゆらと戻って行ったのだった。 千景が去ったあとも、暗い道を赤さんの照らす微かな明かりを頼りに進んだけれど青墓の杜は静かだった。「今日はあまり屍人に出会わないのね」 古参の遊女の言葉からもっといっぱい屍人に出くわすと思っていたのだ。「今夜は特別な夜ですので」 それは知っていた。「潮時なんでしょう? あの世とこの世が近づいて屍人が集まるって」 声の
流砂穴を避けながら柊の根を渡っていると時折、暗い鼠色をした表面に獣毛に覆われた砂疱が上がってくることがあった。それは流砂の中をしばらく漂って、弾けることなく再び砂の中に沈んで行く。妾のすぐ足もともに近づいてきて再び沈んで行くのを見たが、大きさといい、形といい、どうみても人の頭だった。もしかして屍人は、昼は流砂の中に潜み、夜になると這い出て来るのではないか? 青墓に屍人がいると言う噂は、辻沢の吸血鬼伝承から来ている。その伝承は辻沢の鎮守社である宮木野神社と志野婦神社の祭神が戦国時代に流れてきた双子の吸血鬼で、その血縁が今も辻沢で脈々と息づいているというものだ。さらに子孫には度々吸血鬼が生まれ、代々夜の闇に紛れて人を襲ってきたと言われている。襲われた人間は死ぬことを許されず濁世を永遠に彷徨う。それが屍人なのだった。 そして古参の遊女が教えてくれたことがある。「青墓はあの世とこの世の狭間にあって、満月になるとそれらが極限まで近づくから成仏したい屍人が青墓に殺到する」 それを潮時と言うのだそうだ。 夜空を見上げると、柊の梢の先に満月が見えていた。今夜はその潮時なのだった。 何度か流砂穴に落ちそうになりながらも、微かに届く月明かりのおかげでなんとか柊林を抜けることができた。ここから先は青墓の杜。いつ屍人が襲いかかって来るかわからない領域だ。それよりまず明かりの心配をしなければならなかった。青墓は鬱蒼と茂った木々のせいで木漏れ日も通さず昼さえ真っ暗なのだ。真夜中の今、月など梢を見上げようとも見る影もない。ここから先どう進めば良いのか、漆黒の闇に慄いていると、「風鈴太夫。こちらへ」 下世話人の赤さんの声だった。すぐ近くから聞こえてきたけれど、またも姿は見えなかった。「赤さん? どうしてここに?」 赤さんの声はそれには答えず、「柊太夫の元へお連れしますので、私めの後へついてきて下さい」
オートバイタクシーが去った後、バス停の表示にマッチの火をかざして見てため息がでた。やっぱりそうだ。ここは青墓の杜に入るには厄介な方のバス停だった。 青墓には二つのバス停がある。 一つは、青墓に来るほぼ全ての人が降り立つ青墓北堺。そこで降りれば踏み固められた細道があり、まだ浅い杜の中の広場に出ることができる。その広場は逡巡の広場と言われ、さらに戻るか奥へ進むか、つまり生きるか死ぬかをいったん立ち止まって考えるために用意された場所だ。多くの人はそこで青墓の異様な森相に怖気付き引き返す。さらに踏み込む者はほんのわずかで、入れば二度と戻ってくることはない。 もう一つのバス停は雄蛇ヶ池入り口。そこからは北に位置する雄蛇ヶ池へも南の青墓の杜に入ることも出来る。ただ、青墓へ行くには荒れ野を渡りさらに行く手を遮る黒々とした柊林を通って行かなければならない。そこが青墓でもっとも人を寄せ付けない場所といわれているのは、柊の葉の棘ばかりでなく、沸き立つように砂が踊る流砂穴がその柊の根と根の間にいくつも口を開けているせいだった。一歩間違えて流砂穴に落ちれば、そこは文字通り地獄の入り口で砂に呑まれて永遠に浮き上がって来れない。つまり、このあたりのことをよく知った人間か青墓の住人の屍人でなければ通り抜けることなど不可能なのだった。 妾はもう一度、オートバイタクシーが去った道を振り返り、その後部ランプの赤い光が遠くの暗闇に消えてしまったのを見て、さっきより大きなため息をついた。青墓北堺はあのさらに先だ。いったいどれだけ歩けばいいのか?それより、ぐずぐずしていれば柊が屍人に喰われてしまう。やはりここは危険を犯しても柊林を抜ける他なさそうだった。 妾は意を決して踵を返し拒絶の様相を見せる柊林に向かった。そこまでの荒れ野も一筋縄では行かなかった。蔦が絡まる虎杖の茂みが行手を遮ってなかなか先に進めない。







